教材研究は永遠に終わらない
授業の準備をする。この時間がかなりかかる。
経験を重ねてくると、少しずつその時間は減るが、それでも時間はかかる。
結論から言う。
教材研究には終わりがない。極めようと思えば、無限に時間が必要である。
6年生の社会科で、奈良の大仏の学習をする。2時間授業くらいだろう。しかし、この奈良の大仏について、生涯かけて研究している研究者はたくさんいるのである。
図工で水彩画を教える。この水彩画も何百年もの歴史の上に今日の作品がある。
算数然り、音楽然り、どの教科も同じことが言える。
教育とは、先人が積み上げてきた「文化の後追い」の側面がある。
(参照「教育は文化の後を追う」初等教育論)
先人の積み重ねてきた遺産を、効果的に短時間で子どもたちに伝える。
だから、教育課程とはそのまま文化の歴史をたどっている部分がかなりある。これを一人の教師が本気で勉強しようと思うと、当然のごとく時間は足りない。
ましてや、それを多くの子どもたちに教えるという「授業づくり」の部分も考えなくてはいけない。知識として知っているだけでは授業は成立しない。指導技術を学ぶのだって、同じようにいくらでも勉強ができる。
どれだけ効率よくやろうとも、教材研究に終わりはこないだろう。
教師の慢性的な時間不足の根本的な原因の一つに、この終わりない教材研究がある。
(おそらく、どの職業にも同じような「無限に極める」部分はあるだろう。)
会議や行事を削って時間を浮かせても、専科の時数を増やしても、教科担任制にしても、教材研究が永遠に続くのであれば、教師の仕事は終わらないのだ。
浮いた時間が出てくれば、それを別の教材研究に充てていくだろう。
しかし、だからと言って毎日泊まり込んで仕事をしている教師はさすがにいない。
みんなどこかで見切りをつけている。時間と能力を考えながら、今回はこの辺りまで進めようと、自分で判断している。
それでいいのだ。自分で見切りをつけなければ、一生かかっても終わらない。
つまり、教師の働き方改革の一つの方法として「自分自身の見切り」の設定がある。
続く