宿題依存率

教育技術シリーズ

 仮に宿題を全廃したときに、学級の子どもたちの学力はどのくらい下がるだろうか。正確な数値をはじき出す必要はないが、担任としてもイメージは持てるだろう。

 もし2割は下がるだろうとイメージできるなら、「宿題依存率20%」ということになる。

 全く影響がないと思えるのであれば、「宿題依存率0%」となる。

 この宿題依存率を限りなくゼロにしていくよう、さまざまな方法を考えていく。

 もちろん個人差もあるだろうし、子どもの特性や事情も考えた上で一律にとはいかないかもしれないが、全体とのシステムとしてはゼロを目指していく。

 すなわち授業だけで学力が定着していくように、設計していくということである。

 今、「子どもの貧困」が問題になっている。子ども全体の6分の1が貧困状態にあるという。
 食べ物や着るものが著しく不足しているようには見えないかもしれないので、教室にいるとその実感はわきにくいかもしれない。
 地域によってその数値も上下があろう。

 子どもの貧困とは、そのまま保護者の貧困を意味している場合が多い。
 保護者の収入が十分でなく、保護者自身も長時間の労働に疲弊している可能性もある。

 また、非常に悲しいことだが、保護者による子どもの虐待も問題になっている。
 あからさまな暴力はなくても、全く子どもに無関心だったり、家庭教育がなされていないという家庭もあるかもしれない。

 学級にいる全ての子どもたちが、家庭で安心して生活し、保護者に十分に見守れているとは限らない。

 その中にあって、学校からの宿題を十分にこなしていくだけの余力もすでにない子どもたちもいることは想像しておいても間違いではないだろう。

 ところが、宿題をしてこない子どもたちの家庭に連絡を入れ、保護者に見てもらうようにお願いをする教師がいる。
 「計算ドリルが終わっていないので、お母さんも見てやってください。」と簡単にお願いする教師は一定数いる。
 家庭で音読を聞くのは保護者の当然の仕事、と思っている教師ももっといる。
 保護者は音読を聞かされることを望んでいない。(参照「音読の宿題は保護者に恨まれる」

 保護者も事を荒立てたくはないから黙っているだけかもしれない。
 もしも仮に、「学力は学校でつけるのではないのか」「なぜ学校ですべきことを家庭に強要するのか」と言われたときに、学校に反論できる根拠はない。
 また「うちでは勉強させない方針です。〇〇の習い事を優先します。」と言われたら、覆すことはできない。
 宿題というのは長年の慣習に過ぎず、学校に強制力はない。保護者も自分が子どもの頃から存在する「宿題」に抵抗感がないだけである。

 ここで改めて、宿題は何のために行っているのかを学校の方が検討するべきである。

 「宿題依存率」が高ければ、学校が本業である学力保証を家庭に外注している状態だと言われても仕方がない。

 「家庭学習の習慣を身につけさせるため」という理由を挙げる場合もある。
 学力の向上や定着は学校で行い、あくまでも習慣の問題である主張するのであれば、宿題の在り方は根本的に変わってくるはずだ。
 また自由学習的な意味合いで取り組ませるのであれば、提出方法や内容も変わってくるだろう。

 「宿題依存率」についてもう一つの側面がある。
 それは、
 教師が宿題に依存する率が高いほど、日々の宿題チェック業務が増える
 ということである。
 とりもなおさず、担任としての仕事を圧迫している。(参照「本業率を上げる」

 朝から休み時間、給食時間までを費やして、ずうっと宿題チェックをしている教師もいる。
 場合によっては、正解しているかどうかのチェック、漢字のはね・はらい・とめのチェック、〇つけしているかどうかのチェックなどやっていて、もはや本業が何か分からなくなっている。
 宿題チェックの合間に授業をやっているような・・・

 宿題ありきと考えず、まずは教師自身の「依存率」を自分で確かめよう。

<追記>

 これを公開してから、さまざまなお考えもいただき、そして他の宿題に関する論稿も読んだ。
 再度確認しておきたい。
 ここでの主張は「学力向上における宿題への依存率を下げよう」ということである。

 宿題の内容と目的については、それぞれ意見があるだろう。
 まずは教師自身が、「自分は出さなくても一向にかまわない、あくまでもオプションである。」と言い切れるかを問題にしている。

 依存率が下がれば、目標も内容も大きく変わってくる。
 子どもの選択の幅も広がるだろうし、保護者への説明責任も基本的に問題ない。

 家庭学習をゼロにするかどうかは、また全く別の問題である。
 つまり、これは宿題の問題ではなく、教師が日々行っている授業の問題だという主張である。

 宿題がないと学力が身に付かない(つまり依存度が高い)と、子どもも教師も7時間目や8時間目の授業をしていることと同じ状態になる。
 心理的にも時間的にも負担感が増し、教師も当然チェックをしなければならなくなる。
 これは、「残業代を基本給に組み込むブラック企業」と同じ発想ではないか、と考えている。

 なお、ここでいう「宿題」とは、常識的な解釈として以下のように定義している。
 1 学校(主として学級担任)から子どもに出した課題であり
 2 基本的に家庭で取り組むことを前提とした上で
 3 提出を義務付けるもの   である。

 一斉に同じものである場合もあれば、内容や分量に個人差が生じる場合もあるかもしれない。

 だから、家庭学習と宿題は正確に言えば違う。
 学校から強制されなくても、(塾に行かなくても)家で勉強することはあるだろう。

 自学という名称であっても、強制力が伴うのであれば、本来は広く宿題の範囲に含まれるだろう。
 (もちろん、その学級においてどんな名称を付けていても、それに意見するものでもない。)

<追記2>

 当然、学びには連続性があり、その気になれば無限ともいえる広がりがある。
 いくら勉強しても、ここで終わりというものはない。

 だから、まず教師の方で「ここまでは最低限全員に身につけさせたい」と思えるラインを決めなければならない。
 そして、そこまでは授業の中に収まるように、授業を設計する。
 「宿題依存率を下げる」とはそうした教師の授業設計を意味している。

 その上で、発展的・補充的な内容を考え、子どもたちにプラスアルファを提示することで、学びを深めることは大いにあるだろう。

 ちなみに市販テストで平均点が90点から95点になる程度であれば、ほとんど宿題依存率をゼロに近づけることは可能である。

 
 

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