脳は変化に抵抗する
人間の脳は「今までと同じ」を好む傾向にあることは、脳科学的に分かっている。
それがどれほどにいいことであろうと、昨日までと違うことをしようとすれば、立ち止まってしまうのだ。
まだ原始のころ、人間が弱く小さな存在だったときに、昨日と同じように食べ物が得られるのなら、そして昨日と同じように安全に暮らせるのだから、そのままでいた方がいいと考えるのはごく自然のことである。
生き物としての人間は、食べ物が確保でき、命の危険がなければ、それで十分だからである。
安心した生活があるのに、わざわざ変化を求める必要はない。危険な場所に行く必要もないし、見たこともないようなものを食べる必要もない。
変化しないということは、生命維持機能の一つなのである。
問題は、それが現代社会ではうまく機能しない部分が出てくるということである。
現代社会では、とりあえず命の危険を常に心配する必要はない。食べ物が急になくなったり、命を脅かす天敵が表れたりするわけでもない。
反対に、社会の仕組みや生活の様式はどんどんと変わってくる。そのスピードは、人類が地球上に誕生したころから比べれば、もはや比較しようがないくらいの違いだ。
日本の歴史でも、縄文時代という比較的現代に近い時代でも1万年近く続いたのだ。石器時代に至っては、はるかに長い。
このギャップが、生活を難しくしている。
人間の脳は原始の頃と、ほぼ変わらない。同じ構造である。
にもかかわらず、次々と変化していく社会に対応していかなければならない。
昨日と同じがいいと思う「脳の働き」に逆らうかのように、新しい生活を求めていく。
もちろん、個人差はある。
新しいものにすぐに飛びつき、試行錯誤を楽しむ人もいる。反対に、どれだけ社会が変化しても、スタイルを変えない人もいる。
そうした個人差のばらつきは、マーケット理論の中でも明らかにされている。
すぐに新しいものに飛びつく人は「イノベーター」や「アーリーアダプター」と 呼ばれ、最後まで変えない人は「ラガード」と呼ばれている。
(マーケット理論で「キャズム」と検索すると出てくる。)
いずれにしても、どんなに優れた方法であっても、全ての人が一度に賛成してくれるわけではないことは、人間の脳の特性として心にとめておいた方がいい。
また、自分自身の意識についても考えておいた方がいい。
職場でも何でも、新しい生活を提案されたときに、「それはどうかと思う」と反対の気持ちが沸き上がったときに、自分を振り返る。
いろいろと理屈をつけてしまうのだが、自分で冷静に分析して、自分に反論を試みる。
すると、結局最後まで残る感覚は「変わりたくないだけ」という場合が多い。
(書いている自分自身にも、そうした面があることは強く自覚している。)
誤解を恐れずに、あえて言う。
教師の超勤が改善されない理由の一つに、「ずっとそうやってきたから」がある。
自分が教師になってから、今に至るまでずっと超勤が当たり前だった。周りもそうしてきている。
そうした時間の中で生きてきたし、それで命が脅かされているわけでもない。
(いや、じわりと危険にさらされているのだが、緊急度が低いので分からない。)
そんな生活の中で、手ごたえも感じてきた。やりがいもあった。自分の人生が間違いだったとも思いたくもない。
だから、脳が「このままでよくない?」と反応しているのも事実なのである。
頭で分かっていることと、感覚としてつかんでいることに違いがあるのだ。
もし教師になったときから、自分も同僚も(世間の常識も)「定時で終了、超勤なんてもってのほか。」だったら、それが普通だったろう。
その中でできることを考える。その中でできることしかしない。
急に定時に帰るようになると、以前の自分が能率が悪かったのか、あるいは今の自分がさぼっているのか、と「不快」な感情が沸き上がる。
意識は「定時があるべき姿」と思っても、感覚がそれを許してくれない。
大きく言えば、これは日本中がそう思っている。「超勤」「残業」がデフォルトになっている社会では、定時は「さぼり」という常識になっている。
しかし、時間をかけ、手間をかけただけいい仕事ができる(つまり、安全で平和な暮らしができる)と思えたのは、工業社会までである。
狩りや漁をしていたときも、農業が社会の中心だった時も、手間暇をかければそれだけたくさんの食べ物が手に入った。
あとは体力や組織力の違いが、実際の食べ物や安全の違いになった。
工業社会では大量生産の大量販売ができるようになって、作れば作るほど、売れば売るほど、さらに豊かになった。もはや食べ物や命の心配はしなくても「豊かな生活」を実感できた。
それが今、少しずつ社会が変化している。
物の豊かさが、必ずしも生活の豊かさではなくなってきている。
人は時間をかけて食べ物や物を作り続けるよりは、情報をやりとりし創造性が求められる時代に変わろうとしている。
しかし、人間の創造性は、残念ながら頭を使い続けては返って生まれない。時間的、精神的な余裕がなければ、「変化を嫌う」脳の働きだけが優先される。
もし、教育を単なる「知識の詰め込み作業」の繰り返し、だと割り切るのなら、教師の超勤もありだろうし、子どもにも山のような宿題を出した方が、効果があろう。
現代社会の生きる我々は、「古いままの脳の働き」を自覚しながら、それを意図的に変化させて現代社会になじませるステップを取らなければならない時代にいる。
教師が知的な職業であり続けようと思うなら、組織を上げて超勤と闘わなければならない時代なのである。