ピントがずれた校内研究
「校内研究で選んだ教科を、子どもは嫌いになる。」という笑えない冗談が、現場で広まっていたことがある。算数を研究教科に選んだら、子どもは算数が嫌いになるということだ。
研究授業でそれなりの結果を出そうとして、いろいろと準備をする。それはそれでいいのだが、結果として授業が延長したり、やたらノートを書き直しされたり、プリントに書き込みされたり、子どもにしてみれば負荷がかかるようになる。これが嫌いになる原因となる。
時間をかけ、負担をかければ、成果が出るのはある意味当たり前である。単元の時間が本来10時間なのに、12時間かければ前よりもできるようになるはず。
(子どもが好きになるかどうかはともかくだが。)
しかし、それは研究とは言わない。
およそ世間一般で言われる研究とは、薬でも建築でも医療でも、皆ができないことをある人やチームが特化して取り組んでくれた結果、その時には一時期負担をかけるけれども、社会全体としては、その恩恵によって便利になったり、快適になったりしなければ意味がないのである。
学校の研究は、ほとんどがその汎用性をもたない。特殊なことをやって、特殊な成果をだしても、他のところで使えない。特殊なことをしないといけないからだ。
そこで一つの提案がある。
学校の研究は、保護者にこそ公開するべきだと思っている。
取り組みの流れを事前に説明し、結果も公表する。同業者が見に来るよりもはるかに緊張感はあるが、説得力も出る。
「先生、うちの学校は算数の研究をしているらしいですが、ずっと算数が嫌いって言っています。どうにかなりませんか。」という問いに答えてこその研究なのだ。
書きながら現場の声は理解している。そんなことはとてもやれる自信がない、と。
しかし、その事実に直面しないで、一時的な見た目だけ立派な授業や、言葉が躍っているが実践と直結しない指導案などが、まだ残っている限り、子どもが研究教科を嫌いという話はなくならないだろうと思う。
さらに悪いことに、この非生産的な研究が、教師の働き方改革の阻害要因になっている。全てではないが、そうした残念な事例があちこちの学校にある。
指導案作成や教材の準備などに、膨大な時間とエネルギーが相も変わらず費やされている。誰の責任なのだろうか。
現場の教師に、これが研究なのだと思い込ませている、張本人がいる。
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