しなくていいことは一切しなくなる
時間がないと割り切ると、するべきことも限定されてくる。
私の場合は、自作のプリントをほとんど作らなくなった。教科書とノートを中心とした授業で十分にやっていける。
教師によっては、全部プリント学習してノートを使わないという方法の人もいた。毎時間プリントを作成する。作成するために毎日遅くまで残ることになる。
ノートに書かせれば、配る手間も印刷の時間もいらない。何より子どもたちが自分でノートに書く力を身につけさせることになる。
プリントを毎時間準備するということは、そのプリントがなければ子どもたちは学習が進められないことになる。何の勉強をするのかプリントが配られるまで子どもには分からない状態である。
国語の学習でのプリントでは、めあてを書く欄と、その日に学習する物語の場面のコピーと、最後にまとめを書く欄があっての1枚構成である。そもそもめあてなどどこにも書かせなくても授業は進む。教科書のコピーを転載するなら、教科書そのものを使わせればいい。
まとめを書かせるならノートで十分である。
このプリントをほぼ毎時間作っていくのである。時間がいくらあっても足りない。
子どもたちもそれを単元ごとにファイリングしていく。その時間もかかる。
そもそも教科書を転載するときに、フォントの大きさが変わる。教科書は意図してその大きさにしているのに全く無視することになる。印刷するから、せっかくのカラーが白黒の挿絵になっている。2年生の「スイミー」のプリントを見たとき仲間の赤い魚とスイミーの区別がつかなくなっているプリントを見たときにはさすがにまずいだろうと思った。
算数のプリントを作成している人もいた。理由は、教科書を使うと解き方を見てしまい、子どもたちが考えなくなるからという理由だった。この恐ろしい誤解のせいで、学力を著しく落としていったことについては、いずれ書いていく。
手間暇をかけてプリントを作成しても、それが子どもの学力定着には貢献していなかったのである。教科書だけ使っても算数の学力は十分に維持できる。
計算プリントを山のように印刷する教師もいた。これもいずれ書いていくが、一部の例外を除いてほとんどプリントは不要である。
教科書の問題を確実に解いていくだけで十分な学力は定着する。それに計算ドリルやスキルを最小限加えるだけでいい。
やめても困らない、むしろ本流に帰ることで効果が上がるという結果が出てくると、ますます時間を切ることができる。