地方行政と教育委員会も国と同じ関係である。
教育委員会としてもお金は多い方がいいのだろうが、決めるのは市の財務局であり、最終決定は市議会が決めている。
なお、教育に関することは地方自治の原則により、国家が介入しにくいようになっている。
例えば文部科学省が「学校にコンピュータを導入するから、地方自治体にお金を渡しますね」と言っても、そのお金を最終的にどう使うかは地方公共団体が判断する。そういう仕組みになっている。
いろんな事情でほかにお金を回す必要がある場合、学校にコンピュータが来るのは後回しの可能性はある。
教育の側面から見ると、おかしな話に見えるようだが、社会全体から見ればそうした判断ができることの方が民主主義の原則にのっとっていることになる。
以前に知り合いの指導主事が話していた。
「学校では、予算を決めるときに、昨年度と同じくらいでいいね、言って決まっていくでしょうけれど、教育委員会ではそうはいかないのです。どうして去年と同じ規模必要なのか明確な根拠をしめさないといけないのです。」
言われれば確かにその通りだ。どこ部署だって予算は欲しい。だから、削れるところから削って、回せるところに回すようにする。財務省も市の財務局も同じだ。
自分たちの立ち位置から見れば、意地悪な人(ごめんなさい。)に見えるかもしれないが、社会全体から見ればそれが当然のシステムである。
では、なぜ諸外国は、相対的に日本よりも予算が多いのだろうか。
その理由は私も勉強不足で、よく分からない。
高齢社会に対応していくために、どうしても他の国よりもそちらにお金が必要なのかもしれない。
実際に介護関係のお仕事をしている方々の労働環境は、今なお劣悪であると言われている。つまり、もっとお金が必要なのが現状だ。
それに、ある年から急に、一つのものだけ予算をどかんと増やすわけにもいかないだろう。当然、世間は疑問に思う。そして追及される。
責任者には説明責任が生じる。どの部署も省庁もお金が欲しいのに、どうして一つだけ突出するのか、と。
あるところの予算が増えるということは、どこか別のところは削られているわけだから。削られたところは批判するのも当然の成り行きである。
教師は、公務員であり、しかもお金に関わる仕事をしていないので、こうした金銭に関する知識も感覚も緩い部分がある。もしかしたら、そのあたりも予算が増えない理由かも。